90年前の奇跡。銀座線開通の苦労の歴史とは

2017年12月に、開通から90周年を迎えた東京メトロ銀座線。東洋では前例のなかった地下鉄工事の苦労は相当なものでした。この記事では、90年前に地下鉄の開通に尽力した"地下鉄の父" 早川徳次の苦労・建設工事の様子などをお伝えします。

日本の地下鉄の歴史=銀座線の歴史

日本で最初に開通した地下鉄の路線はどこかご存じですか? そう、その答えは現在の銀座線。今から90年以上前の1927(昭和2)年、上野駅~浅草駅間に開通した2.2kmは、日本のみならず東洋初の開通だったのです。東京に東洋初の地下鉄が誕生したことは、日本の近代化の一つの証として大いに歓迎されました。その開業に最も貢献したのが、のちに「地下鉄の父」と言われる「東京地下鐵道株式会社」の早川徳次(のりつぐ)でした。

早川徳次 / 所蔵:地下鉄博物館

一方、渋谷から新橋までの地下鉄建設を行った「東京高速鉄道株式会社」は、1939(昭和14)年に現在の銀座線新橋駅~渋谷駅間の6.3kmを開通させました。そのときには2つの会社がそれぞれに新橋駅をつくっており、現在のような直通運転はしていなかったのですが、同年9月、東京地下鐵道株式会社と東京高速鉄道株式会社の両社は浅草駅~渋谷駅間の相互直通運転を開始。現在の銀座線の路線が形成されました。その後、地下鉄は国の指導のもとで一元化して運営されることになり、1941(昭和16)年特殊法人として、帝都高速度交通営団が誕生しました。

そして戦後、1953(昭和28)年に路線名称を正式決定し、浅草駅~渋谷駅間は「銀座線」という名称が正式につけられました。

"地下鉄の父"の苦労

早川徳次は、南満州鉄道・鉄道院を経て、鉄道と湾岸に興味をもち、調査・研究をするために1914(大正3)年、欧米視察旅行に出発しました。ロンドンの交通事情を見た早川は、地上の混雑にわずらわされることなく時間通りに走る地下鉄に感銘を受け、「東京に地下鉄をつくろう」と地下鉄の事業化を決心しました。

その後、東京に帰った早川は早速、地質や交通量について調査・研究にとりかかります。当時、日本では地下鉄建設を行ったことがなく、技術や知識はまったくない状態でした。専門家さえ「東京は昔海だったので、地盤はやわらかく、地下水が多いので地下鉄建設は無理だ」と言うなかで、自ら地盤に問題がないか調査しました。

地盤の安全を確認した早川は、地下鉄建設の目的や路線、工事の費用、利益などを試算。その結果、地下鉄建設の費用は2千万円(現在の価値では100億円以上)必要であることがわかりました。早川は独自に資金を集めるのは不可能と判断。そして、1917(大正6)年に「東京軽便地下鉄道」という会社を設立し、資金集めを開始します。早川は、地下鉄の必要性を東京市をはじめ鉄道の専門家や事業家、有識者に熱心に説いて回りました。苦労のかいあって、1920(大正9)年に「東京地下鐵道株式会社」が誕生。早川徳次が、39歳の時でした。そして、ここから日本の地下鉄の歴史が始まります。

人力で掘られたトンネル

1925(大正14)年、東京地下鐵道は上野駅~浅草駅間の地下鉄工事に着手します。

この当時の地下鉄工事は地面の上から穴を掘る「開削工法」で行われました。しかし、日本で初めての地下鉄工事であり、すべてが一からのことで、着工後、下水管の破裂や地盤の崩壊などの問題も発生しました。

所蔵:地下鉄博物館

工事にあたっては、現代のような最新の機械はなく、あるのは杭打機やコンクリートミキサー、コンプレッサー、鉄の杭や土砂を運ぶベルトコンベアーぐらいでした。このため、トンネルの掘削は人力で行われました。土はシャベルで掘り、掘削で生じた土砂はトロッコで隅田川の桟橋などに運び、そこから船で埋立地に運びました。

所蔵:地下鉄博物館

このような作業を、上野と浅草の両方から始め、慣れない工事は難航しながらも、関係者の努力によって1927(昭和2)年に完成しました。

銀座線、浅草駅〜渋谷駅間開通までの道のり

多くの人の苦労によって開通した上野駅~浅草駅間ですが、当初は上野駅~新橋駅間5.8kmを建設する計画でした。しかし、不況や関東大震災のあおりを受けて資金調達が難しくなり、上野駅〜浅草駅間2.2kmを建設することになったといわれています。

上野駅〜浅草駅間の開通は予想以上の反響でした。浅草、田原町、稲荷町、上野に駅をつくると、開通初日には始発前から乗客が各駅に殺到し、午前中だけで4万人を超える乗客が乗車したと言われています。この光景を見た早川は、地下鉄の必要性を改めて確信。すぐさま上野駅〜新橋駅間の工事に着手します。1934(昭和9)年、ついに浅草駅~新橋駅間8.0kmが開通しました。

東京地下鐵道が浅草駅~新橋駅まで開通し、大成功をおさめると、東京市も地下鉄の建設計画を進めます。しかし、東京市は関東大震災の復興事業に追われていたため、地下鉄建設計画が一向に進みませんでした。

そこで、東京市に代わって地下鉄建設を進めようとする動きが民間の起業家たちから出てきました。彼らは東京市の地下鉄建設の代行を申請し却下されながらも何度かの交渉で、ようやく「将来、東京地下鐵道と合併すること」「東京市が買収したいときは、いつでもそれに応じること」などを条件に、東京市が保有する地下鉄道の免許の譲渡を認められました。

このような経緯をたどり、1934(昭和9)年に東京高速鉄道株式会社が設立。翌年1935(昭和10)年に渋谷駅~新橋駅6.3kmの土木工事に着手。工事は順調に進み、1939(昭和14)年に渋谷駅~新橋駅間が開通します。

東京高速鉄道はすでに開通していた東京地下鐵道の浅草駅~新橋駅間の路線に新橋で乗り入れることを想定していましたが、接続方法について意見の対立がありました。そのため、両社は同じ新橋で別々に2つの駅を営業することになります。その後、話し合いの末、1939(昭和14)年9月に、浅草駅~渋谷駅間の直通運転が実現、現在の銀座線の路線のかたちになりました。銀座線という名称は1953(昭和28)年、丸ノ内線の開業を前にしてつけられました。

初期の銀座線の車両

所蔵:地下鉄博物館

銀座線の営業当初は、1000形と呼ばれた黄色い車両が3分間隔で運行しました。

所蔵:地下鉄博物館

当時の車両の色はベルリンの地下鉄の明るい黄色を参考にしたと言われており、すべての面において、当時の最新の技術を取り入れた地下鉄でした。車両は火災防止のため全体が鋼鉄製で、自動列車停止装置を導入。車内は間接照明で、自動開閉ドアもいち早く取り入れられました。2017年には国の重要文化財に指定され、地下鉄博物館に展示されています。

東洋で最も長い歴史を持つ銀座線。先人の積み重ねてきた伝統を大切にしながら、最新技術によって安全性や快適性を担保し、これからも走り続けます。

協力:地下鉄博物館

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