メトロニュース2017年7月号
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9感じる 大学を卒業するとき、ついふらふら新卒チケットを使用せず、フリーターになってしまった。どうもこの性格では会社できちんと働くのが難しいような気がしたのである。生意気だったので社会への反抗の気もちもあったかもしれない。今だったら、考えられない甘さだ。 いくつものアルバイトを経験したけれど、工事現場のガードマンというのは忘れられない仕事だ。高架線をつくるゲートで交通整理をしたり、掃除や水まきをしたり、一日中ラジオを聞きながら、のんびりと働いていた。季節の変わり目では一日で空の色が変わる。あんなふうに風や雨や日ざしを全身で感じる日々は、ぼくにはもうない。 その警備会社は茅場町にあり、二週間に一度バイクで事務所に給料をもらいにかよっていた。茅場町は下町のオフィス街で、当時のぼくにはすごくまぶしい場所だった。しゃれたレストランやカフェがあって、すごくおしゃれな街に見えたのである。 季節は今と同じころ、ジーンズのポケットに給料袋をねじこんだぼくは、自分で選んだ道とはいえ、少々の劣等感を抱えながら、オフィス街にあるいつものイタリアンに足を運んでいた。カウンターに腰かけ、会社という謎めいた場所で働く人々と食事をする。いつまでこんな生活が続くのか、ぼくのための場所がこの社会のどこかにほんとうにあるのだろうか。 毎日が不安だったけれど、そんなときに奮発してたべる給料日のカルボナーラやペスカトーレは実においしくて、すこしだけ気分が豊かになったものである。最近は茅場町にはなかなか足を運ぶ機会はなくなった。あのころの自分にいってやりたいものだ。きみは何年か会社で働き、その後小説家という不思議な仕事に就く。子どものころの夢がかなうのだ。おめでとう。とはいえ、決して楽な仕事ではない。毎日が別な意味で闘いで、幸福の分量でいえば、きみとさして変わりはしないと。メトロのある街で石田衣良茅場町、給料日の塩からいカルボナーラ第四回いしだ・いら 1960年、東京都生まれ。成蹊大学卒業。1997年『池袋ウエストゲートパーク』で第36回オール讀物推理小説新人賞、2003年『4TEEN』で第129回直木賞を受賞。オンラインブックサロン『世界はフィクションでできている』を主催。https://yakan-hiko.com/meeting/ishidaira/top.html

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